会社で働いていると、自分が「奴隷」「家畜」であるということを思い知らされる話

2019年5月25日雑記

毎朝通勤していると痛感します。

「ああ、自分は奴隷であり家畜なのだ」、と。

青い空、白い雲、暖かいお天道様と、こんなに天気がいいのに、私は毎日同じ時間にある場所に向かいます。

それは「会社」です。

こんなに天気がいいのに、ピクニックや散歩に行かずに会社に行くのはなんでででしょう?

それは私が「奴隷」であり「家畜」であり、「弱者」だからです。

会社に奴隷として雇われないと、生きていけない。だから搾取されているのです。

私が会社から搾取されているもの

私が会社から搾取されているのは、私の肉体でも、精神でもありません。

それは、「命」です。生きとし生けるものにとって、もっとも貴重な、「命」。これを会社に搾取されています。

私が生きられる時間は決まっています。不老不死ではありません。なので、「私の時間を売り渡す=命を売り渡す」ことと同義です。

狂気の沙汰ですよね。生きるために、自分の命を削るって。いったいなんのために生きているのか、わからなくなります。

生きながらにして、死んでいく。生きるために、自分の時間を殺す。

会社で働くということは、そういうことです。

この矛盾が、人(というか私)を苦しめているのだと思います。

会社に搾取されるのに、さらに人間関係で疲弊する

労働者は、会社で搾取されるだけでなく、そこの人間関係でも疲弊しますし、奴隷同士でも搾取しあいます。

平社員という奴隷は、管理職という奴隷を管理する仕事である奴隷に、隷属します。

奴隷の中でも、階級があるわけです。なので、一番下の奴隷は、自分より少し上の奴隷の仕事も、やれと言われたらやらねばなりません。

こういった現代の奴隷制が一番厄介なのは、タテマエ上は、「皆、平等だ」とされている点です。

確かに、人権上は法のもとに皆平等です。どの人が偉くてどの人が偉くないなんてものはありません。

でも、会社の構造上「平等」なんてものにはなってないんです。会社というのは、明らかに「経営者」などのトップ層が有利なようにできています。

トップダウン式の、搾取が行われます。

会社と労働者の関係は「搾取する側」「される側」でしかない

これは非常に簡単な話です。

たとえば、年収400万円の奴隷=会社のコスト400万円なわけです。

この年収400万円の奴隷が「1000万円」の利益を生み出そうが、奴隷がもらえるのは、「年収400万円」です。

では、残りの600万円はどこに行くのか?それは、経営者の懐です。経営者は、自分が働かずして、600万円を獲得することができます。

これが、会社の構造です。

このように書くと、「年収400万円の奴隷が必ずしも利益を稼ぎ出すわけではない。むしろ負債になる可能性すらあるんだ」と思われる方もいるかもしれません。

これは確かにその通りです。

でも、経営者は、負債を生み出す奴隷がいっぱいになったら(=事業が危なくなったら)、会社をたためばいいわけです。

経営者には常に、逃げ道があります。しかし、奴隷は経営者が会社を辞めるとなったら、いきなり職を失います。転職して別の奴隷となることはできますが、この奴隷労働から逃れることはできません。

奴隷もいきなり職を失うと大変困ります。

なので、結局奴隷に残されている選択は、「必死に利益を生み出すために働く」しかないのです。しかし、生み出した利益たちは経営者たちの手の中に収まり、下にはおりてきません。

これを奴隷制といわず、何を奴隷制というのでしょうか??

では会社で働くことはメリットがないのか?

当たり前ですが、そう聞かれるとそんなことはないのです。

特に日本の会社は、いったん雇用したらそうそう簡単に解雇できません。

なので、自分の命(=時間)を会社に渡すことと、自分が自分のコスト以上の利益を生み出しても経営者に差し出すことを条件に、ある程度の安定的な生活を保障されます。

悪くない話ではあると思います。

でも、思うのです。まるで家畜じゃないか、と。(エレン・イェーガー風)

進撃の巨人風に言うなら、「家畜の安寧」というやつです。家畜でいるがゆえに、その狭い世界で生きることを条件に、生存が保障される。

「鳥かごの中に囚われていた屈辱」を思い出してしまった

家畜として生きるために、もっとも気づいてはいけないことがあります。

それは自分が「家畜」である、という自覚です。自分が家畜であるということに気が付かなければ、柵の中で生きているってことを知らなければ、家畜は幸せです。

なぜなら、世界が広いことを知らないこと、自分が囚われていることを知らないからです。

つまり、自分は自由であると思える状態でいられるのです。

でも、自分が家畜であることに気がついてしまった家畜は大変です。なぜなら、自分は不自由だと知ってしまったからです。

そして、会社と労働者は決して平等なんかではないということ、自分は搾取されているだけだったということにも気づいてしまいます。

自分が奴隷・家畜だと知ったやつには2タイプいる

自分が奴隷であり家畜だと知ったやつには、2タイプいます。

それは、家畜をやめる能力のある家畜無能な家畜です。

能力のある家畜は、自分で家畜を抜け出すことができます。投資家になったり、会社経営者になったり、自分の成功談をブログにしてまとめたり本に出版したりするのはこの人たちです。

一方で、無能な家畜は、しょせん自分が家畜でしかないこと、そして家畜以上に価値のある存在でもないことに気が付きます。このタイプが最も不幸になります。

なぜなら、家畜でいることのむなしさにも気が付いてしまったが、かといって自分は家畜以上になれる人間でもないことにも気が付いてしまったからです。

つまり、「自分という存在の虚しさ・価値のなさ」を、自覚してしまったのです。(私が現代社会で精神を病む人が多いのは、こういった人が大半だからだと思います。)

あなたは、どちらの人間でしょうか?

ちなみに現在私は無能な奴隷・家畜です。会社という鳥かごのなかから、脱出して生きていくだけの力も技術もありません。

正直もう生きているのがしんどいです。毎日死ぬ勇気が欲しいと思って通勤電車という奴隷船に乗り込んでいます。

せめてもの反抗として、この記事を会社のパソコンで書いています。

ぐだぐだ書いて、結局なにが言いたいのかというと、『進撃の巨人』って現代社会の縮図みたいでいいよね。(^▽^)/

終わり

雑記

Posted by みのり